北欧家具の有名デザイナー ハンスJ・ウェグナー

北欧家具の有名デザイナー ハンスJ・ウェグナー

 Yチェア、ザ・チェアなど家具の世界において素晴らしい功績を残したハンスJ・ウェグナー。
 
ウェグナーの家具は、現在も使い続けられており、様々な人から愛される家具です。温かみや美しさがありながら実用的で、量産も可能なデザインであったりと、庶民の生活に寄り添った印象が感じ取れます。どのような考えや経験に基づいて、そのようなものづくりの考えが形成されたのでしょうか。
  
 
ハンスJ・ウェグナーは、ドイツとの国境近くのユトランド半島南部のトナー(当時はドイツ、現在はデンマークに属す)で1914(大正3)年4月2日に生まれました。父親のピーターM.ウェグナーは町の靴職人で、ハンスJ.ウェグナーは幼い頃から父の靴工房を遊び場としていました。当時は木を削ることが好きで、彫刻家にあこがれを抱いていたそうです。
義務教育を終えたウェグナーは、近くの家具工房に弟子入りし、修行をはじめました。ベッドルームのセットやキャビネットなど、生活に密着した家具を製作し、技術を得ていきます。のちに生み出す家具が暮らしに寄り添ったシンプルで機能的な感覚であるのは、この工房での仕事が原点となっているからかもしれません。
 
 

美術工芸学校で学んだリ・デザイン

ウェグナーは、17歳にして木工マイスターの資格を得た後も、引き続きトナーの家具工房で家具職人としての経験を積んでいきましたが、1935年、21歳の時には兵役でコペンハーゲンのあるシェラン島に移住します。コペンハーゲンは当時、キャビネットメーカーズギルド展という家具職人組合による家具見本市や、ハンドクラフト製品の常設展示場であるデンパルマネンテによって盛り上がりを見せていました。半年間の兵役を終え、 活気づくコペンハーゲンを目の当たりにしたウェグナーは、木構造の技術と知識だけではなく、デザインを学ぶことを決意します。
 
ウェグナーが進学したコペンハーゲン美術工芸学校は、当時コーア・クリントらによって改修されたデンマーク工芸博物館の敷地内にありました。そこには世界中から集められた椅子のコレクションが収蔵されており、家具デザインを学ぶ学生にとって最適な環境だったのではないでしょうか。また、クリントの教え子の一人であるオルラ・モルゴー・ニールセンが教鞭を執っており、クリントが提唱していた過去の様々な家具の応用や数学的アプローチに基づく家具デザインの方法論が教育されました。美術工芸学校では、家具のデザインに必要な製図やドローイング、水彩画などに加えて、キャビネットやデスク、椅子など具体的な家具について学び、優秀な成績を修めたといいます。
しかし3年目には自主退学し、アルネ・ヤコブセンとエリック・モラーの建築事務所に勤め始めます。ボーエ・モーエンセンなど、美術工芸学校卒業後にコーア・クリントが教鞭をとるデンマーク王立芸術アカデミー家具科に進学し、さらにアカデミックな知識を身につける者もいましたが、ウェグナーは進学するより実務の現場に身を投じることで、より実践的に家具デザインを学ぶことにしたのです。
 
 

ヤコブセンの建築事務所でのオーフス市庁舎の家具デザイン

1939年にはヤコブセン設計のオーフス市庁舎に置く家具をデザインするため、デンマーク第二の都市オーフスへ移ります。ここで椅子をはじめ、事務机や本棚、キャビネットなど、様々な家具のデザインを手掛けました。議会の椅子や、婚姻届けを受け付ける華麗な部屋に置かれたスポークチェアなども残しています。
ウェグナーよりも一回り年上で、当時すでに名声を得ていたアルネ・ヤコブセン。ヤコブセンの下でオーフス市庁舎という一大プロジェクトに携わったことは、若いウェグナーが実務の方法について学ぶ大きな出来事となりました。
オーフス市庁舎は1942年に完成しましたが、ウェグナーはその後数年間にわたってオーフスに留まり、自身のデザイン事務所を構えて活動を継続しました。
 
 

中国の明代の椅子のリ・デザイン「チャイナチェア」

1943年、ウェグナーは中国の明代の椅子を参考にしてデザインした、2種類のチャイナチェアを発表しています。
 一つは、美術工芸学校の学生時代に工芸博物館で目にしたヨーク・タイプ(ヨークとは2頭の牛の頭をつなぐ木製の道具)の椅子をリ・デザインしてヨハネス・ハンセン工房から発表されたもの。
 もう一つは、オーフスの図書館にあったオーレ・ヴァンシャー著『MØBELTYPER』(家具様式)で目にしたクァン・イと呼ばれるアームが大きく湾曲した椅子をリ・デザインしたタイプ(FH4283)で、現在もフリッツ・ハンセンで製造されています。

1945年には、FH4283の生産性を高めたタイプのチャイナチェアFH1783(現PP66チャイニーズチェア)をフリッツ・ハンセンから発表しています。アームの部分にピーチ(ブナ)材の曲木を用い、座面をペーパーコードで編むことによって、より効率的に加工できるようになっています。クァン・イを起源としたチャイナチェアのデザインは、リ・デザインを繰り返すことで現在も世界中で愛される名作、Yチェアやラウンドチェア(ザ・チェア)の誕生へとつながりました。

 

ウインザーチェアのリ・デザイン「ピーコックチェア」

美術工芸学校時代の恩師オルラ・モルゴー・ニールセンによる教職の斡旋もあり、戦後の1947年にはコペンハーゲンに転居します。日中は美術工芸学校で教鞭をとり、夜はヨハネス・ハンセンの工房で夜な夜な作業をしながら自身のアイデアを形にし続けました。

そこでは、イギリスのウィンザーチェアを大胆にリ・デザインしピーコックチェアが誕生しました。この椅子はヨハネス・ハンセン工房の職人であったニルス・トムセンと協力して製作され、47年のキャビネットメーカーズギルド展で発表されています。ピーコックチェアは、 ウィンザーチェアの背中の当たりをよくするため、背中のスピンドルの一部が幅広にデザインされています。 放射状に配置されたスピンドルの上端を大きく湾曲した曲木が支えるピーコックチェアは、従来のウィンザーチェアのイメージから大きく飛躍しています。 また、 クジャクが大きく羽を広げた姿に似ていることから名づけられましたが、スピンドルの形状から、「アローチェア」とも呼ばれました。ウェグナーの木工マイスターとしての技術と家具デザイナーとしての柔軟なデザインセンスが、融合した一脚といえますね。

 

機械による量産可能な椅子のデザイン 

1949年、チャイナチェアをさらに発展させた2種類の椅子をデザインしています。一つは、ウェグナー最大のベストセラーとなるYチェア(CH24)。
カール・ハンセン&サンの工場現場を訪れたウェグナーが、機械による効率的な生産を考慮しデザインしました。量産可能なデザインにすることで、チャイナチェアの面影を残しつつ、庶民でも購入できる価格を実現しています。日本においてもなじみ深い椅子となり、2011年には外観そのものが立体商標として日本の特許庁に登録されました。
 
もう一つは、ヨハネス・ハンセン工房で製作されたラウンドチェア(JH501、ザ・チェア )です。 ラウンドチェアは、1960年に実施されたジョン・F・ケネディとリチャード・ニクソンによるアメリカ大統領選挙のテレビ討論会でも使用され、全米に発信されたことでも有名になった椅子ですが、それ以前にピーコックチェアとともに、またボーエ・モーエンセンのシェルチェア、フィン・ユールのチーフティンチェアなどと一緒に、アメリカの雑誌「Interiors」1950年2月号2のデンマーク家具の特集記事で紹介されました。デンマークのモダン家具デザインの魅力が、アメリカに広く知られるきっかけの一つとなった家具といえます。
その後、1954年から57年にかけてアメリカとカナダの24の美術館25を巡回する「Design in Scandinavia」展は6万5千人以上を動員し、北米市場におけるデンマーク家具の人気が定着しました。
デンマークを含むスウェーデン、ノルウェー、フィンランドの北欧4か国は「Scandinavian Design Cavalcade」を編成し、毎年9月頃に各国の美術館、店舗、工場などにおいて思戦会を開催しました。アメリカなどからの観光客が、北欧諸国のデザインを見て回れる機会を提供したことによって、北米市場におけるデンマーク家具への需要は着実に増加していきました。当時ラウンドチェアを製造していたヨハネス・ハンセン工房には5、6人の職人しかおらず、アメリカからの大量の注文に対応しきれなかったというエピソードが残されています。
 
 

ウェグナーの家具を販売する「サレスコ」

1951年には、ウェグナーがデザインした家具を複数のメーカーが垣根を超えてトータルに販売するネットワークが発足しました。サレスコ(Salesco)と名付けられたこの組織は、それぞれ得意分野が異なる5社で構成されました。
カール・ハンセン&サンからは、Yチェア以外にもCH25(1950年)やCH07(シェルチェア、1963年)。APストーレンからは日本でも人気のベアチェア(1951年)やOXチェア(1960年)。ゲタマからはGE240(1955年)をはじめとする一連のソファーシリーズ。
このように、ウェグナーの代表作が各メーカーから発表されています。これら一連の家具はトータルコーディネートされてサレスコのカタログに紹介されました。
ウェグナーは機械を活用して効率よく生産される家具を、サレスコの各メーカーの得意分野を考慮しながらデザインしました。一方で、家具職人によって製作される家具もヨハネス・ハンセン工房向けに継続的にデザインしており、それらはキャビネットメーカーズギルド展において発表されていました。
このように、相手の技量や特徴に合わせて最適な家具をデザインしたウェグナーの知識とセンスは、他のデザイナーにはなかなか真似のできるものではありません。ところがその後、サレスコは徐々に結束力を失い68年に協力関係を解消し、ヨハネス・ハンセン工房との協力関係も66年にキャビネットメーカーズギルド展が消滅したことをきっかけに薄まっていきます。
 

 

ウェグナーの家具製造を行うPPモブラ

PPモブラーは昔ながらのクラフトマンシップを大切にしながらも、機械による新しい加工技術をバランスよく導入する柔軟さを持ち合わせている、1953年に設立された家具工房です。モブラーのオーナーでもあり家具職人でもあったアイナペダーセンは、69年にPPモブラーから発表されたPP201、75年発表のPP62 / 63、87年発表のPP58、ウェグナーが現役を引退する93年までの制作活動の場を与え、見守り続けました。
そして後にPPモブラーは、1970年代からウェグナーがデザインした一連の家具の製造ライセンスを取得しました。
70年代半ばには、サレスコの構成ブランドであるアンドレアス・ツックから一連のテーブルシリーズ。同様にフリッツ・ハンセンから、チャイニーズチェアFH1783(現PP66)。さらには90年代初めに閉鎖されたヨハネス・ハンセン工房から、ザ・チェア(JH501、現PP501)などを引き継ぎ、小規模な工房ながら、ウェグナーの家具を製造する工房として世界的に知られるようになったのです。
 
 

500脚以上の椅子をデザインしたウェグナーのポリシー

デンマークを代表する家具デザイナーとして、生涯を通じて3500枚以上のドローイングを描き、500脚以上の椅子をデザインしたウェグナー。
ウェグナーはデザインポリシーとして「座りやすさ」「クラフトマンシップ」「デザインの美しさ」を掲げていました。
座りやすさと美しさに関しては、リ・デザインを繰り返すことで、よりよい椅子を生み出そうとした試行錯誤の痕跡や、「人生でたった一脚のよい椅子をデザインできるか……いやそれは到底無理な話だよ」という言葉からもウェグナー の理解が深まります。
「クラフトマンシップ」に関しては手作業や手仕事を思い浮かべる場合が多く、機械を用いての効率的な生産を意識したウェグナーのデザインに違和感を感じるかもしれません。しかし、自ら優れた家具職人であるウェグナーは手仕事の限界を知っており、質が高く美しい造形を複数つくるために、機械を利用することを選んでいました。
また、アメリカの近代的な量産家具メーカーからデザインの協力依頼を断っていたエピソードがあります。機械による効率的な生産の可能性を認めていたウェグナーですが、自分の目が十分に届かない海外で自身の家具が製造されることは避けたかったのです。ウェグナーは、現場の職人と納得するまで協議しながらアイデアを形にしていくという自分のやり方を貫いたのです。
 
結果的にウェグナーのデザインは褪せることない美しさを持ち現在も使い続けられ、真に生活者に密接した温かさもあるデザインだといえるのかもしれません。
 
参考文献
『美しい椅子―北欧4人の名匠のデザイン』えい文庫
『流れがわかる! デンマーク家具のデザイン史: なぜ北欧のデンマークから数々の名作が生まれたのか』誠文堂新光社
『ストーリーのある50の名作椅子案内』スペースシャワーネットワーク