北欧家具の有名デザイナー アルネ・ヤコブセン

北欧家具の有名デザイナー アルネ・ヤコブセン

アントチェアやエッグチェアなどで知られるアルネ・ヤコブセン。
 
彼はスウェーデンのエーリック・グンナール・アスプルンドやフィンランドのアルヴァ・アアルトと並んで、北欧モダン建築を代表する建築家でもあります。 デンマークではデザイナーとして以上に、自国を代表する建築家として広く認識されています。近年の建築業界は、建築家が建物の設計をし、内装はデザイナーというようにそれぞれの専門性に特化して進めることが一般的です。しかしヤコブセンは、自身で設計した空間を構成するものの一つとして、家具はもちろん、照明やドアノブ、音響機器、カトラリーなど様々なものを手掛けていました。ヤコブセンは空間全体をとらえることで、モダンでありながらも一体感があり居心地の良い空間を生み出していたのです。ヤコブセンはどのような人物でどのような考えを持っていたのでしょうか。
 
 
1902年2月11日、ヤコブセンはユダヤ系デンマーク人の家系に生まれました。貿易業を営む父親がおり比較的裕福な家庭で育ち、幼い頃から絵を描くのが好きな少年だったようです。11歳の時には、全寮制の学校へと転校をしており、そこで将来建築家となるフレミング&モーエンス・ラッセン兄弟との出会いがありました。幼いころから絵が抜群にうまく才能に溢れていたヤコブセンは、絵描きになることを目指しますが、実業家の父親に強く反対され、絵の才能を生かすことができる建築家を志すようになりました。コペンハーゲンの工業技術学校、デンマーク王立芸術アカデミーの建築科に進学するなどまさにエリートコースを歩み、建築家としての専門教育を受けました。このような経歴から家具デザインに対するアプローチも、ウェグナーやモーエンセンとは大きく異なります。また、パリ万博の銀賞を受賞したりと、学生時代から才能が評価されていました。
 
 

市建築課「未来の家」を設計

1927年、ヤコブセンは王立芸術アカデミー卒業後、コペンハーゲン市建築課に就職。
29年には、フレミング・ラッセンと共同で参加した「未来の家」の設計コンペにて大きな注目を集めました。円形を基本とする「未来の家」は、自動開閉する車庫や自家用ボートを係留しておく水上ガレージに加え、屋上にオートジャイロの発着台を備えています。他にも、ほこり吸引機能付きの玄関マットや、郵便局まで自動で手紙を送るエアシューターも装備されており未来生活が具体的な形で提案されていました。「未来の家」構想は、現在も残っているラウンド・ハウス(1956年)へと引き継がれています。
 
 

ベルビュービーチの総合リゾート開発

その後独立したヤコブセンは、少年期を過ごしたクランペンボーの海岸沿いに位置するベルビュービーチの総合リゾート開発に携わります。1930年代を通して展開されたこの大事業は、ヤコブセンが指名コンペで勝利したコスタル・バスから始まり、青と白のストライプでカラーリングされた監視塔とアイスクリームの売店、マットソン乗馬クラブ、ペラヴィスタ集合住宅へと続きます。さらにベルビュー・シアター&レストラン、テキサコ・ガソリンスタンド、カヤッククラブも加わる、デンマーク発の大規模な近代リゾート地区として1938年に完成しました。
ベルビュー・シアターには、目前に広がるオアスン海峡の波を優雅に表現した客席がデザインされています。当時最先端の技術であった成型合板で作られた客席の背もたれは、フリッツ・ハンセンによって生産されました。ベルビュー・シアター併設のレストラン用には、ヨーク・タイプの中国の椅子をアレンジしたベルビュー・チェアがデザインされました。中国の椅子のリ・デザインによって漂う異国情緒が、リゾート地区ならではの非日常感を演出する意図が込められています。
 
 

オーフス市庁舎の設計

1937年、建築家のエリック・ムラーと共同で、オーフス市制300年記念のオーフス市庁舎の設計コンペに参加します。2人が提案した時計塔のない近代的な設計案は、選考委員によって選ばれたものの、伝統的である時計塔を擁する市庁舎を望む市民と対立しました。激論の末に時計塔を設置することになりますが、文字盤は通常よりも低いところに設置され、ヤコブセンによる抵抗が感じられます。当時スカンジナビア諸国では伝統的なものを大切に使用という機運が高まっていました。伝統的なハンドクラフトから、工業化への切り替えに成功したバウハウスの影響を受けていた2人は、反発をうけたのですね。
デンマークは冬季の昼間の時間帯が短く、日の光も弱いという環境にあります。デザインに関して、公共的な場所である市庁舎においても、できるだけ明るく居心地のよい空間を目指したヤコブセンとムラーの思いが強く感じられる設計となっています。オーフス市庁舎の家具デザインの多くは、ウェグナーが担当していますが、ヤコブセンも照明器具や掛け時計などをデザインしており、それらは現在でも大切に使われ続けています。
 
 

亡命生活と植物

戦時中、ユダヤ系デンマーク人であったヤコブセンはナチスドイツからの迫害を逃れるために、妻と友人のポール・ヘニングセン夫妻とスウェーデンのランズクルーナに亡命します。
終戦後の作品には、中庭や室内に設けられたガラス張りの植物用ショーケースなど、植物がよく取り入れられるような傾向が見られます。それは、亡命中に自生している植物の研究で知識を蓄えたからです。また、幼少期から好んで描いていた水彩画に時間を費やすようになりますが、ヤコブセンが描いた草花の柄は、妻のヨナがシルクスクリーンを用いて布地などに印刷し、草花をモチーフとしたテキスタイル作品や壁紙となりました。
 
 

クランペンボーのタウンハウス

終戦(1945年)に伴いデンマークに帰国したヤコブセンが、最初にとりかかった大きな仕事は、1930年代の総合リゾート開発で設計した「ベラヴィスタ集合住宅」の南側に「スーホルムI」という5棟の住居からなるタウンハウスを設計するものでした。デンマークの風土と景観に配慮した「土着性」と「モダン」がうまく融合した設計となっています。ヤコブセンは海岸に面した一軒を自ら購入して自宅兼事務所とするほど、慣れ親しんだ土地に建つ庭付きのタウンハウスを気に入っていました。後に、スタイルの異なる「スーホルムII」および「スーホルムIII」も同地区内に建てられています。
 
 

アントチェアとセブンチェア

同時期に、ヤコブセンは「アントチェア」をデザインしています。
チャールズ&レイイームズによって1945年に発表された成形合板の椅子は、成型技術の限界から座と背が分離していましたが、ヤコブセンはそれを一体化させています。
フリッツ・ハンセンでは、大がかりな成型合板用のプレス機の導入を前提とした量産、開発コストがかかり過ぎるということで断られてしまいます。しかしヤコブセンは、当時取り掛かっていたノボ製薬会社の社員食堂で使う椅子として300脚の受注をし、フリッツ・ハンセンの説得に成功しました。貿易商を営んでいた父親譲りのビジネスマン振りが発揮され、アントチェアが誕生したのですね。
アントチェアは3本脚ですがその利点は、円卓での使用時隣の椅子の脚とぶつかりあうことを避けられることや、石畳など平坦ではない床面に置いても安定することです。しかし安全性は問題点となっていたため、視覚的バランスの良さからアントチェアは3本脚とし、後に発表したセブンチェアは4本脚が似合うようデザインしたといわれています。
 
ヤコブセンは小学校の設計も手掛けています。フェン島南西部のホービュー・セントラルスクール、コペンハーゲン郊外のムンケゴー小学校とニュエア小学校です。ムンケゴー小学校では、アントチェアをリ・デザインしたムンケゴーチェアとタンチェア、学習机もデザインしました。天井に影が出ないようにふちに隙間を作ったムンケゴーランプと呼ばれるシーリングライトも手掛け、ロドオア市庁舎やロドオア中央図書館など、後の建築作品でも使用しています。
 
 

SASロイヤルホテルの設計とエッグチェアなど

1960年には、デンマークで初めての高層ビルとなったSASロイヤルホテルを設計しました。歴史的な建築物が数多く建つ地区に建設された近代的な印象のこのホテルは、オーフス市庁舎と同様に当初大きな議論を呼びました。ヤコブセンは、ドイツモダニズムやミース・ファン・デル・ローエの影響を受けて、モダニズム=工業化のための理論を駆使して設計に取り掛かりました。しかし、デンマークの技術力の範囲内で取り入れ、グローカル(グローバル+ローカル)という視点が生かされたといえます。
また、ホテル内の各所に設置されたエッグチェア、スワンチェア、ポットチェア、ドロップチェア、ジラフチェアなどの椅子もデザインしており、当時珍しかった硬質発泡ウレタンの成型技術を用いて作られています。さらに照明器具、ドアノブ、レストランで使用するカトラリー類までデザインしています。ヤコブセンは直線的な外観をもつホテルの内装に丸みを帯びた家具類を設置することで、内外の対比が美しく調和も保たれた内部空間を生み出したのですね。
SASロイヤルホテルは、時代に合わせて手を加えることによって、デンマークを代表する近代的なホテルとして長年君臨し続けてきました。2002年、ヤコブセン生誕100年の記念事業としてアルネ・ヤコブセン・スイート」が作られています。 家具調度類だけでなく壁やカーテンの色も竣工当時の姿を再現した客室となっており、ヤコブセンデザインの当時の空間を感じることができます。
 
 

オックスフォード大学新キャンパスの設計 リ・デザインのセブンチェア

ムンケゴー小学校が決め手となり、ヤコブセンはイギリスのオックスフォード大学の新キャンパス建設の設計者に指名されました。それまでに蓄積した知識と経験を惜しみなく投入して大規模な学校建設の設計に取り組みました。
図書館棟、講堂棟、事務棟、食堂棟、学生寮からなるセントキャサリンズ・カレッジは、建物のファサードから張り出す鉄筋コンクリート製の大きな梁が全体の統一感を演出しています。この大きな梁は、室内に入ると天井から光を取り込むトップライトの反射板として機能しており、北欧出身の建築家らしいアイデアが盛り込まれています。
専用の家具としては、食堂用のハイバックのオックスフォードチェアやテーブルランプ、学生寮には椅子やベッドがデザインされまし。セブンチェアは、シリンダー形状の一本脚で床に固定され、幅広のシングルアームを持つデザインで、講堂に使用されました。空間や機能に合わせて過去の作品をリ・デザインしたといえます。
完成から半世紀以上が経過するセント・キャサリンズ・カレッジは、維持管理のうえ現在も使われており、ヤコブセンは1966年にオックスフォード大学から名誉博士号が授与されています。
  
 

デンマーク国立銀行の設計

遺作となったデンマーク国立銀行は、ヤコブセンによる建築の集大成のひとつです。
国立銀行のエントランスは、広大なエントランスホールに天井から吊るされた大階段、大階段の手前に敷かれた円形のカーペットの中心には大理石トップの円卓が置かれ、その周囲を取り囲むように黒い革で張られた6脚のスワンチェアが並んでいます。威厳を持って来訪者を出迎え自然と背筋が伸びるような空間です。高層棟の中庭と低層棟の屋上には、ヨーロッパ式と日本式をうまく融合させた独特な雰囲気を持つ庭園が設けられており、外部からの侵入者を拒む巨大な要塞のような外観の建物の内部に彩りが添えられています。
ヤコブセンは第1期工事完了直後の1971年3月に心臓発作で急逝しますが、残りの工事はヤコブセン事務所の所具員であったハンス・ディシングとオットー・ヴァイトリングに引き継がれ、78年にすべての工事が完了しました。
 
 

ヤコブセンの強い信念

ヤコブセンは、建築に関わるあらゆるものを総合して手掛けるトータルデザインを目指していました。自分の目指すものに向けて徹底的に努力する、意志の強さが感じられます。竣工当初はモダン過ぎて市民に反対をおしきって出来上がった建築物や、それに付随するインテリアプロダクトもありました。しかし、40年以上経った現在では人々の生活の中に溶け込み、多くの人々から愛されています。
 
 
 
参考文献
『美しい椅子―北欧4人の名匠のデザイン』えい文庫
『流れがわかる! デンマーク家具のデザイン史: なぜ北欧のデンマークから数々の名作が生まれたのか』誠文堂新光社
『ストーリーのある50の名作椅子案内』スペースシャワーネットワーク