北欧家具の有名デザイナー フィン・ユール

北欧家具の有名デザイナー フィン・ユール

フィン・ユールはデンマークの家具デザイナーの中でも、独自のアプローチで美しい家具をデザインした人物として知られています。
 
1940年~1950年代、デンマークデザインは黄金期を迎えていましたが、その中心には、「デンマークデザイン近代家具デザインの父」ともいわれるコーア・クリントが提唱するデザイン方法論の流れを汲む人々がいました。 ハンスJ.ウェグナーや、ボーエ・モーエンセンなどが、このクリント派を受け継ぐ手法で、機能美に優れたうえに量産化にも成功する家具をデザインしていました。また、クリント派は職人としての経験を積んでからデザインを学ぶという共通点が見られますが、フィン・ユールは、本来は建築家であり家具デザインの専門教育は受けておらず、職人としての製作技術も持ちません。さらにクリントのデザイン方法論にも対抗意識を持っており、既成概念にとらわれない造形を生み出します。
独自の美しさを表現したフィン・ユールについて学んでいきます。
 
 
1912(明治45)年1月30日、ユールはコペンハーゲンに隣接するフレデリシア地区に生まれました。1914年生まれのハンスJ.ウェグナーやボーエ・モーエンセンと同世代といえます。 誕生の3日後に母親を亡くしていますが、織物の卸売業を営む父親のヨハネス・ユールによって比較的裕福な家庭で育ちました。若い頃から美術史に関心があり将来は美術史家になることも考えていましたが、実業家の父親からの反対を受け、高校卒業後18歳でデンマーク王立芸術アカデミーの建築科に進学します。当時の王立芸術アカデミーはコーア・クリントが家具デザインの教育を主導しており、クリントのデザイン方法論こそがデンマーク近代家具デザインの正統派であるという風潮が高まりつつありました。しかし、ユールはその流れに迎合することなく、建築を勉強しながら家具デザインを行います。王立芸術アカデミー在学中の1934年から約10年間、当時のデンマーク建築界を牽引していたヴィルヘルム・ラウリッツェンの事務所に勤務し、カストラップ空港(コペンハーゲン)新ターミナルやラジオハウスなどの設計に携わりました。ラウリッツェン事務所では、世界恐慌による不況にも関わらず仕事量が多く、ユールは王立芸術アカデミーの中退を選択しています。
 
 

家具職人 ニールス・ヴォッダーとの出会い

1937年、25歳でキャビネットメーカーズギルド展に初出展します。その際に、ユールと同じくラウリッツェン事務所に在籍し、コペンハーゲンチェアのデザイナーとしても知られるモーエンス・ヴォルテレンの紹介によってニールス・ヴォッターと出会いました。製作技術を持っていないユールにとって、奇抜な造形を実際に形にし、構造体として保つためには優れた家具職人ニールス・ヴォッダーの存在は不可欠となり、二人のコラボレーシンョンは1959年まで続きました。初期作品のペリカンチェア やポエトソファーに見られる、有機的かつ彫刻のようなシートの下に先の丸い4本の脚を取り付けたシリーズ 、代表作でもあるNo.45(NV45)などに見られる、アームそのものが彫刻作品のようなシリーズをみるとわかるように、若いころから興味をひかれていたジャン・アルプやヘンリー・ムーアといった彫刻家の作品に影響を受けています。ユールは、彫刻的な造形を多用しながら優雅で気品のある家具を生み出したことで「家具の彫刻家」とも言われています。幼い頃から様々な美術品を見て養った美的感覚を頼りに、椅子をデザインしていたのです。
 
 

自邸の設計

1942年には、父の遺産を元にコペンハーゲン郊外の現在のオードロップゴー美術館に隣接する場所に土地を購入し、平家をの自邸を設計します。王立芸術アカデミーの同級生で造園家、トロエルス・エルステッド・ヨーゲンセンにガーデンデザインを依頼し、庭と一体になった家を作り上げました。
ペリカンチェアやポエトソファー、発表当時プレスなどからバッタのようだと言われたグラスホッパーチェアなどの限られた作品しかありませんでしたが、 自分がデザインした家具でインテリアを構成するというユールの夢を、ヴォッダーの協力の下少しずつ実現していきました。
建物自体にも、家具同様にユニークなアイデアが数多く取り入れられています。機能に合わせて部屋ごとに天井の色を塗り分けるこだわりのデザインや、ガラス窓の外側に設置された鎧戸は、蝶番を中心に180度開くことが可能で、外壁に沿わせて収まりよく開け放しておけるようなデザインとなっています。
さらに夏の夕暮れ時に差し込む北欧特有の柔らかな光を好んだユールは、西日が入り込むように、リビングルームの大きな開口部をあえて西向きに設けました。左右の窓枠が「く」の字形状に折れ曲がって大きく開け放つことができ、住宅の内側と外側を大きな開口でつなぐこのアイデアは、日本の伝統的住宅からヒントを得たものと考えられています。リビングルームのデスクの上には、ラウリッツェン事務所で関わったラジオハウスのためにデザインされたペンダント照明を吊るし、さらにオリジナルのデスクランプもデザインしています。
ユールは、住空間というものは外部から設計されるのではなく、人が生活を営む内部の機能に従うよう設計されるべきだという考えを持ち、そうして形成される内部空間を彩るエレメントとして、自身がデザインした家具やアーティストによる芸術作品をしつらえました。生活者としてのユールのアイデアが各所に配された建物と、家具などのインテリアエレメントによって構成される住空間は、ユールが生涯をかけて創り上げた作品といえるでしょう。
 
デンマーク国内でユールが手掛けた建築は、自邸の他にアッセルボのサマーハウス(1950年)、オーバティン邸(1952年)、ラーエライエのサマーハウス(1962年)しかなく、自邸以外は現存していません。ユールが生活していた当時の姿のまま保存されているフィン・ユール邸は、ユールの魅力のみならず、デンマークのモダンデザインを知る上で大変貴重な生きた資料となっており、 オードロップゴー美術館の一部として残されています。
  
 

優雅で美しい家具

1949年のキャビネットメーカーズギルド展で披露されたのは、世界で最も美しいアームを持つといわれるN.45です。アームのみならず特に斜め後ろから見た姿は優雅かつ軽やかで、シートに浮遊感を持たせる手法は後に発表する椅子にも応用されています。現在はコンピューター制御のNC加工機によって量産されていますが同じモデルであっても製造された年代やメーカーによってディテールの形状が異なります。比較してみると、作り手の細かな考え方の違いを読み取れるでしょう。
自邸の暖炉の前に置く安楽椅子としてデザインされたチーフティンチェア(首長の椅子)は、1949年の春、2〜3時間という短時間でスケッチが描かれたというエピソードが残っています。オープニングセレモニーの際に当時のデンマーク国王フレデリク9世がお掛けになったことでも有名ですが、発表当時、ノルウェー人の建築家オッド・ブロックマンからは「ラケットに引っかかった4つのオムレツ」などと酷評されたという話もあり、突飛な造形に対して賛否両論の意見があったそうです。しかし、「首長の椅子」という名にふさわしく大柄で威厳すら感じられるこの椅子は、現在世界各国のデンマーク大使館にも数多く収められています。
ールは椅子だけでなく、ユニークかつ美しいテーブルやキャビネットなどの収納家具、木製ボウルやトレイなども手掛けています。テーブルの一部には天板のエッジが立ち上がったモデルがあり、ユールによるテーブルの特徴ともいえます。カラフルな小型のダブルチェストは、ルートヴィ・ポントピダンの製作で自邸の寝室でも使用され、1961年のキャビネットメーカーズギルド展に出品されました
 
 

アメリカで評価を受けるきっかけとなった「国連本部ビル・信託統治理事会会議場」の設計 

1945年、ラウリッツェン事務所を退所したユールは、コペンハーゲンのニューハウン(新港)のほとりに事務所を設立しました。また、1955年までの10年間工業専門学校でインテリアデザインを教えます。
ユールは、1950年頃からアメリカでデザイン活動を精力的に行っていました。50年代前半、ニューヨーク国際連合本部に関連するビルの一部として理事会議場ビルが建設されました。その際、北欧各国からは、安全保障理事会の議場をノルウェーのアルンスタイン・アルネベルク(当時68歳)、経済社会理事会の議場はスウェーデンのスヴェン・マリケリウス(当時61歳)、信託統治理事会の議場については、当時38歳だったデンマークのフィン・ユールの3名の設計者が選出されましたアルネベルクやマリケリウスと比較すると、明らかに年齢も経験値も異なる人選でした。議場内で馬蹄形に配置された会議デスクの周りには、1951年のキャビネットメーカーズギルド展に出品したアームチェアを採用し、会議場の壁面にはユールがデザインした壁時計が掛けられました。
完成から60年以上が経過し、2011年から12年にかけて大規模な改修工事が行われましたが、議場はフィン・ユールオリジナルのインテリアデザインを尊重しつつ、時代に合わせて見事に生まれ変わっています。
1953年、ユールはワシントンのコーコラン美術館で個展を行い、同時期にアメリカのゼネラル・エレクトリック社のために冷蔵庫をデザイン手掛けています。1954年から57年にかけて北米を巡回した「Design in Scandinavia」展においては、デンマークの展示エリアのデザインを担当し、デニッシュモダンとして一世を風魔したデンマークデザインを、アメリカやカナダに向けて広く紹介することに貢献しました。そんな、アメリカでのデザイン活動を支えたのは、エドガー・カウフマンJr.という人物です。ニューヨーク近代美術館のキュレーターであり建築史家でもあったカウフマンJr.は、父親がフランク・ロイド・ライトの代表作である落水荘の施主であったことでも知られています。美術に強い関心があり美的価値観が一致した二人は、1948年に出会い、固い友情で結ばれていきました。カウフマンJr.のサポートのおかげで、ユールはウェグナーと並んでデンマークを代表するデザイナーとしてアメリカで広く認知されるようになったのです。
 
 

デンマークでの評価

1940年代のデンマークにおけるユールの評価は、独自のアプローチによる一見奇抜なデザインのイメージが先行し、決して高いものではありませんでした。しかし、50年代以降の国際的な活躍を受けて、デンマークでも評価されるようになりました。
デンマーク国内での評価が高まるにつれて、ユールはインテリアデザインのを中心に仕事をこなすようになっていきます。世界33カ所に点在するスカンジナビア航空の営業所のインテリアをはじめ、旅客機DC-8(ダグラス社製)の内装デザインなど、世界を股に掛けた仕事も請け負っています。この頃から、初期の作品に見られるようなハンドクラフトならではの繊細さや彫刻的なディテールは軽減された印象を受けます。それは、フランス&サンなどの量産家具メーカーに機械での加工を前提としたデザインを提供する機会が増えたからです。しかし、量産家具という条件の下にあっても、試行錯誤した様子が作品からもうかがえます。
60年代後半、デンマーク家具デザイン全体の勢いが衰え始めるとデザインの表舞台から姿を消し、オードロップの自邸で妻と静かに余生を過ごすようになり、1989年、77歳で息を引き取ります。
 
 
家具だけではなく、美術的な感覚を大事にしていたフィン・ユール。彼の芸術作品とも言えるような美しい家具たちは、かつて反発や揶揄の対象となりましたが、今ではデンマークのみならず全世界で評価されるものとなりました。個性や人間性にあふれた彼の家具はこれからも人々を惹きつけていくことでしょう。
 
 
 
参考文献
『美しい椅子―北欧4人の名匠のデザイン』えい文庫
『流れがわかる! デンマーク家具のデザイン史: なぜ北欧のデンマークから数々の名作が生まれたのか』誠文堂新光社
『ストーリーのある50の名作椅子案内』スペースシャワーネットワーク