老舗和菓子店『追分だんご本舗』と新宿の歴史

老舗和菓子店『追分だんご本舗』と新宿の歴史

ヨドバシカメラ、ビックロ、新宿伊勢丹、マルイ本店と百貨店、ショッピングモールが立ち並ぶ新宿通り。

通り沿いを歩いて行くと、濃紺に白いお団子が描かれた日除けのれんと『追分だんご本舗』の電気看板が見えてきます。落ち着いた和風の店構えは、都市の喧騒の中では珍しく、自然と目に留まるお店でしょう。

 

『追分だんご本舗』は、創業から70年以上続く老舗の和菓子屋。長年続く愛されるお店の成り立ちから、新宿の歴史を調べてみます。


新しい宿として設立された新宿

新宿は五街道のひとつ、甲州街道にある「内藤新宿」と言われていました。
五街道は、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が公用の輸送などを円滑に行うために、幕府が整備した道路です。日本橋から山梨県をつなぐ道である甲州街道は、慶長7年(1602年)に開設されました。

 

五街道の日本橋から一番近い宿(2里:8km以内)を「江戸四宿」と総称し、内藤新宿はそのひとつですが、甲州街道が開通した当時はありませんでした。 当時は、高井戸宿、現在の杉並区高井戸がその場所にあたります。

江戸から一番近い宿は、地方を結ぶ江戸の出入り口として、人、物資、情報、文化が集まり分散する、商業中心地の機能があり、他の五街道は8km以内に宿が設置されているのに対し、高井戸宿は日本橋から4里(16km)離れ、徒歩を主な交通手段にしていた当時では遠く、不便だったようです。

 

近くに新しく宿を設置したいと、名主・高松喜六らの願いによって、元禄12年(1699年)に甲州街道の新しい宿として誕生しました。内藤家の敷地を一部利用していたこと、新しい宿ということから「内藤新宿」という名になりました。

その内藤新宿にある、甲州街道と青梅街道に分かれる分岐点を「追分」と言い、様々な人が行き交う重要な場所として発展を遂げました。

 

 

追分だんご本舗のイラスト

 

  

室町時代の武将 太田道灌と追分だんご 

『追分だんご』の由来は1455年まで遡ります。
江戸城を築城中の太田道灌は、鷹狩に武蔵野へ出かけ、帰り道に高井戸へ寄りました。そこで、中秋の名月に誘われ、家臣と共に宴を開き、そこへ地元の名族が手つきの団子を献上したところ、その味と風雅を喜び、機会があるごとに所望されたと伝えられています。
以降、高井戸宿に『柳茶屋』という店を開き、道灌の徳を偲び、道灌団子として永く人々に親しまれ、1698年、茶屋は新宿追分に移りました。

 

今も愛される和菓子店

戦後まもない1947年、新宿三丁目に掛けられた『やなぎ家』という白い暖簾を掲げて創業。伝統の味が復活し、『追分だんご』として徐々に広まり、東京名物として呼ばれるほど、人気になりました。


今では、みたらし、餡子、醤油、七味の定番のものや、苺、茗荷などの旬の食材使った季節のもの。そのほかにも、お団子の他にも大福、あんみつの甘味物もあり、多くの種類を販売され、季節を愛でながら楽しめる老舗の和菓子屋さんとして、人々に愛されています。

 

同じ新宿三丁目に居るWELLも、長く愛されるブランドであり続けたいと思います。


 

<参考>
  レファレンス協同データベース

  新宿追分だんご本舗ホームページ『追分だんごの歴史・沿革』