モダニズムの陶芸家 ルーシー・リー
19世紀末、オーストリアのウィーンでは、伝統に縛られない自由な芸術表現を模索する新しい芸術を芽生えさせる時代。世紀末ウィーンと呼ばれるものがありました。経済や政治、芸術や音楽などの多様な文化事象が起こり、画家グスタフ・クリムトなどのすぐれた芸術家たちが活動しました。
そんな世紀末芸術が花開いた1902年3月16日、ユダヤ人の裕福な家庭にルーシー・リー(旧姓ゴンベルツ)は生まれました。父親のベンジャミン・ゴンベルツは小児科医で、精神分析のジークムント・フロイトとも親交があり、文化的にも経済的にも恵まれた家庭で育ちました。
その中で芸術に目覚め、オーストリアで唯一、ジャンルにとらわれずに自由に芸術を学べる教育施設 ウィーン工業美術学校に入学し、陶芸と出会います。
入学時は芸術史と絵画を専攻していましたが、たまたま立ち寄った陶芸科で、轆轤(ろくろ)の上で土の塊が回転し、器へと姿を変える様子に夢中になり、陶芸家を志しました。
陶芸の面白さに魅了されたリーのそばには、いつも轆轤があったといわれています。
学生の頃は自分の窯がなく、土をそのまま学校に持ち込み制作をしていたことも。彼女に大きな影響を与えたのは、建築家でデザイナーだったヨーゼフ・ホフマン。同時代のモダンな建築やデザインから刺激を行けて、ルーシーは完結な造形に意識を向け、ウィーン工作連盟の展覧会に出品されました。
工業美術学校を卒業した1926年にハンス・リーと結婚し、電気窯が設置された新居のアパートで制作活動をし、ブリュッセル万国博覧会や第6回ミラノトリエンナーレ、パリ万国博覧会に出品し賞を受賞。新進陶芸家として実績を積み上げていきます。
通常、焼き物を作るには、窯に入れて焼く工程を何度か行うのですが、ルーシー・リーは制作時間を短縮するために素焼きをしませんでした。焼くのは一度だけ。素焼きをせず、半分「生」の素地の状態で釉薬をかける生掛けで焼くことで、焼いている時に、素地に含まれる物質と釉薬の成分が反応し、器の表面に奥からにじむような色の濃淡やボコボコと泡立ったような溶岩様のテクスチャーを生みだしました。
ロンドンでの形成期
戦争の足音が近づく1938年。ナチスの迫害を逃れるために夫婦でイギリスに渡ります。しかし、ロンドンに住み始めて間もなく離婚し、ハンスはアメリカに、ルーシーはロンドンに残り、ハイドパークの北側のアルビオン・ミューズに自宅兼工房を構えます。
この頃、陶芸家バーナード・リーチと出会います。日本の民藝運動とも深く縁があるリーチは肉厚で重厚感のある力強いやきものを作るのに対し、軽やかで繊細なルーシーの作品を批評し、彼女は自分の方向性に思い悩みながら、制作活動を続けました。
第二次世界大戦が勃発し、陶芸制作だけで生活することは難しく、ガラスや陶製のボタンを作ることで生計を立てていました。当時のボタン工場では軍服用のボタンが生産され、ファッション向けのものを作る余裕はありませんでした。そのため、彼女への工房への注文は多く、型を使ったボタン作りから、クライアントの要望に応じていろいろなボタンを作る必要がありました。膨大な種類の釉薬を調合したり、どのようにすれば望み通りの色や質感になるのかを考えたりしながら、実験を繰り返しました。次第に、デザインも自分で行うようになり、紳士淑女たちが身につける服を彩り、ルーシー自身も幅広い釉薬の知識を培いました。
ボタン作りの注文に対応するために、アシスタントを募集を行い、その時にハンス・コパーと出会います。陶芸の経験がほとんどなかったコパーは短期間で陶芸の技術を取得し、仕事のよきパートナーとして、共同でテーブルウェアを制作するようになりました。
ハンス・コパーとの出会い
40年代後半から50年代にかけて作られた作品は、カップ・アンド・ソーサーなどの実用的な器がほとんど。ウィーン時代のルーシーの薄く優美でシンプルなフォルムの作品の良さを率直に褒めてくれるコパーの言葉を励みに、次第に自分の個性を取り戻していきます。
「掻き落とし」の技法もこの時期に生まれました。遺跡を訪れた博物館で、掻き落とし文様の壺と文様に使われた鳥の骨を目にし、ここから編み物針を使って、茶色の釉薬をかき落とす手法を考え出しました。
50歳を過ぎた頃から、彼女に対する世間の関心がようやく高まりを見せ、「作家」としての評価が定まるにつれて、新しい表現を試みていきます。
2〜3色の土を一度に轆轤引きして螺旋状の文様を作る「スパイラル文」、別々に轆轤引きしたパーツを接合し、複雑なフォルムを作り出す「コンビネーション」など、彼女にとって、器作りはいつも冒険であり、その積み重ねのプロセス一つひとつが新たな創作の可能性を追い求めていました。
現代にも続くルーシー・リーの陶磁器たち
ルーシー・リーの代表作である磁器鉢。ブルーやピンク、グリーンなどの鮮やかな色釉や銅を焼きつけたブロンズ釉などで彩られました。また、高台の部分がきゅっと小さく、朝顔の形をした器や細長い首と膨らんだ胴を持つ花器は、天に向かって柔らかく広がり、美しいラインを描いているのが特徴的です。
1990年、脳梗塞の発作によって、陶芸家の長いキャリアに終わりが訪れ、93歳、アルビオン・ミューズの自宅で人生を静かに閉じました。
20世紀をほぼ丸ごと生きたひとりの陶芸家、ルーシー・リー。没後も彼女の評価は高まるばかりで、彼女をどこの時代に位置付けるかという研究も盛んになっています。近年では、北欧のモダンデザインとの近さも指摘されるようになり、情緒豊かな作品として、ダイニングテーブルをおしゃれに彩る作品として、今も人気を誇っています。
参考文献
・河内タカ著『芸術家たち[建築とデザインの巨匠 編]』オークラ出版、2019年
・中尾優衣編集・執筆、クリストファー・スティヴンズ訳『うちにこんなのあったら展 気になるデザイン×工芸コレクション』東京国立近代美術館、2021年
・『Casa BRUTUS特別編集 器の教科書』マガジンハウス、2016年