バウハウスの教諭として、 また生徒として学んだ後、活躍した<br> 5人のデザイナーとその名作椅子

バウハウスの教諭として、 また生徒として学んだ後、活躍した
5人のデザイナーとその名作椅子

前回の文章:バウハウスとその教育課程 で、バウハウスがどのような場所で、どのような教育を行っていたか、大きく捉えました。

今回はそんなバウハウスで教鞭を取ったデザイナーや、生徒として学びのちに活躍したデザイナーを、名作椅子と一緒にみていきます。

 

バウハウスで教授・教官を務めたデザイナー

 ヴァルター・グロピウス(1883-1969)

モダニズムを代表するドイツの建築家で、フランクロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジェと共に、近代建築の四大巨匠に数えられています。ベルリンのペーター・ベーレンスの事務所で勤め、1910年には自身の事務所を設立。1915年、ドイツ工作連盟の仲間であったアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからヴァイマルの工芸学校を任された後、バウハウスの立ち上げに尽力。開校の1919年からデッサウへの移転後の1928年まで、自ら校長を務めました。1934年にはイギリスに移りましたが、ナチスの台頭を嫌い、1937年にアメリカへ移住。アメリカでは、ハーバード大学デザイン大学院で建築科の教授となり、住宅の規格化・量産化の基礎を作りました。

 

D51アームチェア

1911〜1913年

 

グロピウスが20代後半の時、事務所の独立の翌年、アドルフ・マイヤーと共同で設計した「ファグス靴型工場」のエントランスに置かれた椅子。

ファグス靴型工場は、鉄とガラスが多用された四角形の構造体で、後のグロピウスデザインのベースとなったと考えられます。世界初のガラスのカーテンウォールを採用した工場としても有名で、2011年には世界遺産にも登録された建築物です。グロピウスの死後、ファグス靴型工場を訪れたテクタ社のオーナーが目をつけ、グロピウスの妻の許可を得た上で製造を行い、現在も愛され続けています。

  

F51アームチェア

1920年〜1923年

  

バウハウス校長室の内装に合わせて製作された椅子。

真四角の座面と木製フレームのカンチレバー構造が特徴的で、のちに続くカンチレバータイプの椅子の先駆けと考えられます。シンプルな骨組みに対して、大きな座部と、カンチレバーの肘掛けまで続く背もたれで構成される、ボリュームあるクッションが対照的ながらも、一つの椅子に美しく共存しています。

  

  

ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)

ドイツ、アーヘン生まれの建築家。建築を大学などで学ぶことなく、製図の仕事などをしながら独学で学びました。ペーター・ベーレンスの事務所で勤めた際には、グロピウスなどと出会い、1911年には建築家として独立。鉄骨や、ガラスなどの素材を用いた近代的な建築設計を行い、グロピウスと同様にモダニズム四大巨匠に位置付けられています。1930〜33年、バウハウスの3代目校長となりますが、ナチスの弾圧により閉校。その後、アメリカに渡ってイリノイ工科大学建築学科で教授となった後も建築設計で活躍しました。設計した建築物に置く椅子を自らデザインし、近代デザインの椅子においてエポックとなる作品をいくつも手がけました。「Less is more」や「God is in the details」など、現代にも通ずる格言も残しています。

  

バルセロナチェア

1929年

 

ミースデザインの多くの椅子の中で、最も有名と言える「バルセロナチェア」。

1929年、スペイン・バルセロナで開催された万博博覧会のドイツ館の設計とともにデザインされた椅子です。ドイツ館は、外壁には鉄骨とガラス、内壁には大理石が配置され、軽快さと重厚さが共存する、新しい空間となりました。その中に配置するバルセロナチェアは、当時のスペイン国王を迎えるために用意されました(実際は訪れませんでした)。クロムメッキのストールが座面下で交差し、生まれた洗練されたシェイプは、古代エジプト、ギリシャ、ローマ時代のスツールを思い起こさせます。

 博覧会終了後は使われていませんでしたが、knoll社が1948年頃から研究開発を行い、1953年より製造を開始。美しい革、薄いフラットスチールとその溶接など、ディテールにこだわって作られています。 

 

 

マルト・スタム(1899-1986)

オランダブルメレントに生まれ、アムステルダムの工業専門学校を卒業後、ベルリンなどで建築を学んだ建築家。

1923年には、バウハウスの展覧会に参加し、1929年まで教授を務めました。その後ロシアで都市計画に従事し、第二次大戦後は、オランダやドイツで芸術関係の教育にも携わりました。

スタムは、スチールパイプを使い、カンチレバー構造の椅子を発案した最初の人物とされています。1962年にはその著作権を認められましたが、マルセル・ブロイヤーとは裁判で争う事態になりました。

  

S33

1927年

別記事:椅子のデザイン③トーネットとバウハウスにて、S33やそれにまつわる内容をご紹介しています。

 

  

バウハウスで育ったデザイナー  

マルセル・ブロイヤー(1902-1981)

ハンガリー生まれの建築家。1920年から、最も若い年齢の1期生としてバウハウスで学びました。デ・スティルの中心人物、テオ・ファン・ドースブルフの授業や、リートフェルトの影響も受け、学生時代はレッドアンドブルー・チェアを意識した椅子をいくつも生み出したといわれています。

1924年の卒業後も同校に残り、26年には家具工房の主任教官となります。ベルリンで設立した建築事務所を開業しました。ユダヤ人のブロイヤーは、ナチスの台頭とともにロンドン、その後アメリカへ移住。アメリカ移住後は、ハーバード大学建築学科の教授を務め、様々な仕事を経て国際的にも知られる建築家となりました。

  

ワシリーチェア

1925年

別記事:椅子のデザイン①でご紹介しています。

 

S32(チェスカチェア)

1928年 

別記事:トーネットとバウハウスにてご紹介しています。

 

アイソコン・サイドチェアBC3

1936年

 

上記のスチールパイプ椅子で有名なブロイヤーですが、ロンドン滞在時の1936年に製作した「アイソコン・サイドチェアBC3」は、彼の隠れた名作といわれています。ロンドンでは、積層木材を使った家具を製造するアイソコン社に雇われ、平らな合板から部材を切り出して家具を作りました。

この椅子の全ての部材端は、尖らないように磨かれていたり、U字型に処理されるなどカーブが描かれています。座や背、脚も曲げた合板によって作られ、それぞれの部材をさりげなく接合し、形や構造が柔らいでいて有機的です。

 

マックス・ビル(1908-1994) 

スイスに生まれ、他分野で活躍したクリエイター。チューリッヒの学校で彫金を学び、その後ル・コルビュジェの建築の影響を受け、デッサウのバウハウスに入学。卒業後も、西ドイツにバウハウスの理念を継承するウルム造形大学の設立に尽力し、初代校長を務めました。

バウハウスの全盛期とも言える時代で学んだマックス・ビルは、建築だけでなく、彫刻、描画、プロダクト・インテリア・グラフィックデザインなど様々な方面で活躍しました。

 

  

ウルムスツール

1954年

別記事:椅子のデザイン②にてご紹介しています。

 

 

参考文献

『歴史の流れがひと目でわかる 年表・系統図付き 新版名作椅子の由来図典』西川栄明, 誠文堂新光社

『ストーリーのある50の名作椅子案内』萩原健太郎 , スペースシャワーネットワーク

『名建築と名作椅子の教科書』アガタ・トロマノフ , エクスナレッジ

 

  

【youtube】

豊かな暮らしに関して様々にお話しする、YouTubeの配信を行っています。

バウハウスをテーマにした回です。よろしければぜひご覧ください。 

 

【バウハウス】世界初のデザインを学ぶ職業学校【Blank the Table】

 

 

暮らしを豊かにするバウハウスデザイン【ワシリーチェア】【F51】【ウルムスツール】

 
 

【マッシュルームレザー】素材の活用とデザインについて【バウハウス】