WELL life style #04 fresco(フレスコ) 辻野剛さん
3-1. ガラスとの出会い〜アメリカへ
性別、年齢、国籍を問わず、現代に暮らす人々が共通して抱いているのは、豊かな生活を送りたいという願望だと思います。ただ、その豊かさは人それぞれ感じ方や求めている事が異なる事も事実です。
100人居たら100通りの生活があります。私達から見て豊かな生活を送っていると感じている人達へのインタビューを通して、豊かな暮らしを送るためのヒントを探っていきます。
ガラスとの出会い〜アメリカへ
大阪府和泉市に工房を構える、ガラスメーカーfresco(フレスコ)。
吹きガラスの技法を用いた器は、一つ一つ手作りです。工房内では、基本的に二人一組、それぞれのチームが溶解炉から溶けたガラスを巻き取り、下玉と呼ばれる小さな玉を作るところから、息を吹き込み成形、何度も窯と作業ベンチを行き来しながら、仕上げまでの全工程を行います。
代表の辻野さんが、ガラスに魅せられ学び、frescoを立ち上げ、現在もチームで続けるものづくり。今回は、辻野さんが国内外でガラスを学んだ当時のことや、frescoへの想い、frescoのプロダクトやものづくりへの考え方について、また和歌山県白浜町に設けた新たな工房CAVO(カーヴォ)と取組む、新たな挑戦についてなど、3時間にわたってお話を伺いました。
ガラスとの出会い
ーー大西:元々料理人目指されていたと見聞きしまして、すごくびっくりしました。
そうなんですよ。
ーー大西:ガラス作品の展覧会で衝撃を受けたことをきっかけに、ガラスにのめり込まれたとか。
その後制作を続けられてきて、ガラスについて、当時感じていた魅力と今思う魅力は違ったりしますか。
当時、だから40年くらい前か。新聞って、カラーページは週末しかなかったんですけども、日曜日の広告で、オレンジ色のボウルの写真がどーんとカラーで出ていたんですよ。全然ガラスに見えなくて「なんだこれ?」と思ってよく見たら「世界現代ガラス展」という展覧会が、兵庫県の西宮市大谷記念美術館で開催ということで、一度観に行くことにしました。
すると、へんちくりんなものばっかりで。「え、ガラスってこんな世界なの?」「すごい、なんでもできそう。」と、ガラスという素材はなんでもできるとインプットされて、それでガラスができるところを探したんです。
その時は、大阪デザイナー専門学校の今はプロダクト学科、当時は工芸工業デザイン学科ってところが、かろうじてゼミで吹きガラスができるということで。入学してから、2年目にガラス科ができたので転科しました。
ーー大西:それも気になっていました。私だったら、ガラスやりたいとすると工芸学校とか美術学校を探すよなと思いまして。
ガラスできるところが無かったんですよ。その頃、まだ多摩美もガラス科があったかどうか…みたいな年代だったんですよね。
ーー大西:ガラスってそんなに新しいイメージではなかったです。
古くからあるイメージでしょう?工場とかはいっぱいあったんですよね。
ーー吉田:美大とかで扱う領域じゃなかったんですね。
そうなんですよ。なので、先生も週末に職人さんのところに学びにいったりして、それを伝授してもらったりもしていました。
そのくらいしか情報源がなくて、それを鵜呑みにしてたんですが、在学中に、アメリカ人の作家のワークショップを長野県で受ける機会があったんですよ。その人は先駆者的にイタリアにガラスを学びにいってた人で、技術がすごかったんです。「やばい、こんなことやっててはダメだ。世界はもうどんどん進んでいるぞ。」と思って、卒業したらすぐにアメリカに行こうと考えました。
ガラスというとヨーロッパのイメージが強いので、どうしてアメリカ?となると思うんですけれども。
60年代後半から70年代初頭にかけて、アメリカで「スタジオグラスムーブメント」という、アーティストが自分のアトリエに小さい溶解炉を作って、溶けたガラスで表現しようっていうムーブメントが起きたんです。
なので、小さな設備を作ったりするノウハウとか、それを運営するようなノウハウも同時に学べると考えました。
徒弟制度でやると、技術を得るのに何十年もかかってしまうイメージで、そんなの待てないやと思って。だから日本でも工場等には入ろうとしなかったし、イタリアに行くという選択肢もあったのですが、吹きガラスの技術だけではなく、その周辺のことも学びたいと、アメリカを選びました。
アメリカで知ったイタリアの技術
日本の先輩方には、アメリカに行ったらピルチャックという学校に行くように言われたんですよ。ピルチャックはシアトルにあって、アメリカでは日本でいう人間国宝的なポジションのデイル・チフーリという人が立ち上げに携わった学校です。季節の良い間だけワークショップをやっていて、世界中からいろんな作家・アーティストが来ます。
その中で、限られた滞在期間でこのセッションだったら自分も取れるかもと思ったところに応募したら、結構厳しい審査がありました。ワークショップを受けるだけなのに作品のスライドを送れと言われて、試行錯誤で作ったらなんとか通してもらえて。
とにかくそこへ行くよう皆に言われたから行って、先生のこともよくわかっていなかったのですが、リノ・タリアピエトラというイタリアのマエストロが先生でした。その人がすごい偉大な人で。今もありますけども、ベネチアのムラノ島にあるVenini(ベニーニ)という老舗工房のマエストロだったんです。
イタリアも日本と同じく、伝統工芸を継承する人がいなくて、このままではイタリアの技術が停滞してしまうということで、困り果てた。そして、アメリカのグラスムーブメントで若い人たちがガラスに興味持っているっていうことで、意を決して出てきている人だったんですね。この人がいなかったら、今のガラスはないんじゃないかというくらいの人で。
それこそ足を切ったりとか、足枷はめたりとかして優秀な職人たちを幽閉して、何百年も守り続けてきたイタリアの吹きガラスの技術です。イタリアの国益を守ってきた、血と汗と涙の技術を、アメリカに教えるという。
ーー一同:すごいですね。
2度とイタリアには帰れないけれど、それくらいガラスのことを愛している。だから誰でもいいのでその技術を継承してほしいと、1984年に初めて国外に出したんですよ。それで、僕は86年にその人のクラスを何も知らずに受けているんです(笑)
ーー吉田:そういう人とは知らずに、ですね。
オープニングナイトといって、各セッション初日の夜に、セッションを教える先生のデモンストレーションがあるのですが、それはもう手品でした。
なんであんなことができるの?というようなことの連続で。目の前で繰り広げられるガラス制作がまるでマジックで。皆、顎が落ちていました(笑)
ーー吉田:何も言葉を発せられないみたいな?
本当にそんな感じでしたね(笑)
全くの初心者だったら、へえーって感じだったと思うんですけど。皆それぞれやってきているので、そんなことできるはずないと感じるような。
クラスが始まると、皆食器を作っているんですよ。僕はクラスで一番下手だったんですけども、アメリカだし「世界現代ガラス展」で見たような、キテレツなものやへんちくりんなものを作ると思っていました。でも、だんだん技術を身につけていくと、みんなすごいことをやっていたんだなと、後になってわかりました。
先生がやっていたことを、その後受けた色々なワークショップで出会った人に「こんなことをやりたいんだ。」と相談しても「何言ってるかわからない。」って言われて。
よくよく説明したら「それ、俺イタリアに旅行した時に美術館で見たぞ。」みたいな(笑)そのくらいのレベルのことをリノ・タリアピエトラっていう人はやっていて、そのくらい皆まだ何も知らなかった。
ーー村上:じゃあ辻野さんは、なんだかわからないけどそれがスタンダードになっちゃったから、トップのクオリティの技術がスタンダードですね。でも幸運ですよね。
ーー吉田:そうですよね、奇跡的な体験ですよね。
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